風呂入りてえ!

 ソノ子ちゃんを想うとボッキする。

不器用で冴えないSES営業のゾノと、職場でひときわ静かに輝くアシスタント・ソノ子。満員電車と成果の出ない日々に疲れながらも、彼女のささやかな励ましに支えられ、ゾノは必死に前を向く。誰にも見えないところで尽くし、誰かのために動くソノ子。その優しさの秘密と、ゾノの「格好悪い頑張り」が交差したとき、世界の温度が上昇する。

#エモチックコメディ
#風呂入りてえ!
#広ヒロスケ

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風呂はいりてえ!
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 ソノ子ちゃんを想うとボッキする。

 彼女は、超絶、キュート。お目々ぱっちり、出るところが出ていて、足首が細くて、色白さん。右の眉毛の端にクセがあって、キュッと上がっている。そして、なぜか俺にも優しい。

 彼女は、営業二課のアシスタントで、年齢は二十二歳だと思う。ビジネス専門学校を卒業後、ウチの会社に入った。日々、俺ら営業マンのサポートをしてくれている。あの笑顔、スゲエ良いんだ。あの声、カワユイんだ。あの唇、堪らんのだ。

 山手線に揺られながら、考えてる。

 しかし、分からない。あれほどの美女がなぜ、俺にまで優しくしてくれるのかが。

 会社は新宿にある。通勤は地獄である。俺の場合、横浜線で町田まで出て、小田急に乗り換えて、一時間半ぐらい。混むんだよ。それも中途半端な混雑じゃない、殺人的な満員電車。毎日、辛い。でも、生きるためには、仕方がない。唯一の希望は、ソノ子ちゃん、彼女である。その顔を見られると思うから、通勤の地獄にも耐えられる。

 彼女の仕事は素晴らしい。営業スタッフが出勤すると、必ず声をかけてくれる。

「ゾノさん、お客様からのメールが溜まっていますので、午前中にご確認お願いしますね♪」

「ゾノさん、明日の商談に使うプレゼンデータ、サーバに上げてありますので、ご確認お願いしますね♪」

「ゾノさん、新しい携帯のGPS設定をオンにしておいてくださいね♪」

 本当に細かいところまで気がついて、優しくリマインドしてくれる。まるで天使のような存在だ。彼女を見てると、俺のナニは、固く突っ張り始める。

 俺には悩みがある。

 自分でどうすることも出来ない解決不能な問題である。彼女の名はソノ子。もし俺と結婚したら、マエソノ・ソノ子になる。俺の苗字は前園と書いて、マエソノと読む。マエゾノが一般的だから、俺がゾノと呼ばれるのは何も問題ない。だが戸籍上は、やっぱりマエソノで、これは変えられない。

 マエソノ・ソノ子。これを彼女は、嫌がるだろうか。

 わかってるよ。結婚なんて、夢のまた夢、おとぎ噺、妄想だ。想像しているだけで気色悪いことだし、知られたら嫌われるだろうし、完全に馬鹿げたことだよ。彼女は高値の花、雲の上、殿上人、アンタッチャブルさ。

 でもさ、ブサメンで頼りなくて、うだつの上がらない営業の俺にまでも、優しくしてくれる。彼女がいるから頑張れる。辛い出社にも、苦しい仕事にも、耐えられる。辛い人生を生きるための、俺の密かな原動力が、彼女なんだよ。

 浪人して大学に入った。

 大した学校じゃない。志望校に落ちたから、泣く泣く入った大学だった。楽しくなかった。二年留年して卒業した。遊び呆けてた訳じゃない。学費と生活費を払うのに、必死でバイトしてたから、学校に行けなかった。本末転倒とはこのことだよね。

 大学生になったら、勉強、サークル、遊び、飲み会、合コン、そんな日々を想像するけど、俺の場合、全くそれどころではなく。学費を払うためにバイトし、家賃を払うためにバイトし、食うためにバイトした。貧困学生の代表が、この俺だ。

 家賃二万円の風呂なしアパートに住み、共同の台所で水を汲み、絞ったタオルで、体を拭いた。夏でも春でも秋でも冬でも。体の皮が厚くなった可能性がある。髪は長いと手入れが大変だから、手動のバリカンを買って自分で刈った。丸坊主の大学生だ。そんな奴、今時いねえよ、ってよく言われたよ。

 バイトは短期のものをたくさん繋げて食いつないだ。深夜の交通整理が多かった。工事現場でクルマを誘導をするアレだ。簡単に見えるかもしれないが、かなり難しい。クルマのスピードは速いし、周囲は暗いし。一瞬の判断ミスが、大ごとに発展しかねない。初めてやった時は、オシッコをちびりそうだった。怖かった。でも、慣れてくると、楽しくなった。

 いろんなことを経験した。

 雨の日、スクーターに乗った金髪女子が、俺の目の前で転倒して、足を大怪我、救急車で運ばれるのを手助けしたり、先輩の誘導ミスでクルマが正面衝突したり、歩行者が足を滑らせて穴に落下する事件もあったな。すべて、人間のミスだ。本当にヒトって危なっかしい。

 俺の親父は、タクシーの運転手だった。交通誘導のバイトをしてると言ったら、喜んだ。

「アレは立派な社会貢献だ、上手い人は感心するくらいスムースに誘導するからな。お前も頑張れよ」と言ってくれた。

 その翌日、親父は事故で亡くなった。早朝仕事を終えて、信号を渡っている時に、酔っ払いのSUVにはねられた。あの会話が最後になった。だから、俺は、交通整理の仕事に、ある意味こだわった。この現場は俺が仕切る。そして、ケガ人も、死者も出さねえ。そんな気持ちを持って。そんな奴、珍しいのかも知れないけどね。

 交通整理の仕事は、冬が辛いんだよ。誘導灯を振りながら「風呂入りてえ!」と心で叫ぶ。アパートに風呂がなかったからな。世知辛い世の中のど真ん中で「風呂入りてえ!」と叫ぶ。誰にも届かないんだけどな。

 会社員になった今でも、時々、クルマが立ち往生している状況に遭遇したりなんかすると。交通誘導の真似事をしてしまうこともあるんだよね。お節介かもしれないけど。ま、事故が起こらなければ、それでいいさ。


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