ずっとずっと待ってたよ

 その翌朝、クルマの中から、俺は、彼女を見つけた。あのマスクが目印だった。きっと彼女も通勤途中。駅までの道を歩いてる。

事故で婚約者を亡くし、薬に頼りながら孤独に生きるユウイチ。ある朝、彼は通勤路で一人の女性、さやかを見かける。愛車の青いロードスター越しに始まった、名も知らぬ彼女への淡い憧れ。偶然、再会した彼女は、明るい笑顔の裏に壮絶な過去を隠していた。互いの心の傷を晒し合い、共に暗闇へ立ち向かうふたりの行き先は…

#エモチックロマンス
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 その人は歩いてる。

 毎朝、時間に正確で、七百メートルくらいある、イチョウ並木のこの通り、駅に通じるこの道の、いつもどこかを歩いてる。

 通勤途中の俺は、クルマの中から彼女を見てる。

 髪の色はやさしい茶色、グレイの長いコートを着て、真っ直ぐに前をみて歩いてる。シャンと背筋を伸ばして、しっかりとした足取りで、小気味よく、リズミカルに進んでいく。

 俺がクルマで彼女を追い抜く際、チラッと一瞬間だけ、視界に入る。その時、俺は心で、彼女に挨拶をする。

「やあ、おはよう」と。

 彼女を初めて見かけた日。

 去年の今頃、真冬が始まる直前の季節。この道から街道に出られる交差点でのことだった。

 信号待ちの先頭で、停止していた俺のクルマの眼前、横断歩道のちょうど真ん中で、年配の男性が転んだ。足を捻ったようだった。痛いのか足首の辺りを押さえて、うずくまっている。

 ヤバイな。信号が変わっちゃうよ。

 俺は、クルマから降りて、男性を抱え、歩道を渡り切らせた。後続車が数台待っている。すぐに戻らなければならない。

 歩道側で、怪我をした男性を引き受けてくれたひとがいた。若い女性。大きなピンク色のマスクを着けている。

 俺は、後のクルマに手を上げて、運転席に滑り込む。

「大丈夫ですか?」

「痛いところはありませんか?」

 後ろからそう聞こえた。振り返ると、何人かで男性を助けてくれている。よかった。

 クルマを出す直前、女性と目があった。マスク、ピンク色。お互いに少しうなづきあって、この小さな事態を回避できたことを確認。安心して俺は、クラッチを繋ぐ。

 広い世界のどこか、少しでも、何か誰かのお役に立てるのなら、それは幸いなこと、よかったよ。

 その翌朝、クルマの中から、俺は、彼女を見つけた。あのマスクが目印だった。きっと彼女も通勤途中。駅までの道を歩いてる。

 朝の住宅街は、急ぎ足のサラリーマンや、無謀な走り方をする自転車なんかで、結構危ない。クルマのスピードも速くなりがち、通勤自動車の連中は、住宅街ほど、神経を働かせることが必要がある。色んなものが急に出てくるからさ。

 その時、電信柱の陰、急ブレーキで止まった自転車があった。俺のクルマを見て止まったんだろう。中学生の女の子だった。「ねえ、早く行ってよ」そう言いたげな顔をしてる。

 俺は、運転席から「お先にどうぞ」と合図。

 その子は、首で何度かお辞儀をして、片手でヘルメットを押さえて、行った。こういうことが、朝の道にはある。

 再び、ハンドルを握って、前を見ると、道の端を女性が歩いてる。淡いピンク色のマスク。グレイのコート、首元、ふんわりしたオリーブのストールを巻いている。黒のアンクルブーツが、よく似合ってる。

 昨日の交差点のひとだった。とてもお洒落な服装。もしかすると、俺が気づいていなかっただけで、彼女とは、この道ですれ違っていたのかな?

 あの一件があるまで、見ず知らずの赤の他人。もちろん今も、知り合いとは言えないし、きっと向こうは、コッチのことなど覚えていないだろうけれど、俺の中では、強い印象が残った。

 若くて、オシャレで、困ってる人に心を向けられる、素敵な女性だと思う。半分マスクで覆われた顔、どんな人かは分からない。あの時も、目が見えただけ。可愛い瞳だと思った。透明感があった。

 限りなく赤の他人に近いけど、ほんの一瞬、接点があった。いや、接点とも言えないほどの、些細な出来事。

 ある人を認識して、素敵な人だと憧れることが、人生にはあると思うんだよ。電車で誰かに席を譲る人とか、柔らかい言葉で接客する店員さんとか、暗い会議室、独りで後片付けをしてる人とかさ。時々、人生で、一瞬間、遭遇する、やさしい人がいるじゃない?

 俺に取って、マスクの彼女は、そういう人だ。彼らは、愛すべき存在だと思う。だから俺はいつも、彼女に向かって声をかけてしまう、自分の心の中で。

「やあ、おはよう」

「いい天気だね」

「光、眩しいね」

「夜は、雨が降るみたいだよ」

「風邪、引かないで」

 なんて、ね。

 俺は、この街に引っ越して、二年くらいになる。

 アパートから会社まで、クルマで三十分、毎日同じ道を使って通勤してる。東京郊外、山の中腹に小さな自社ビルがある。軽い山坂道のドライブが楽しい。

 住宅設備を取り扱う会社で、俺はCAD業務のサポートをやっている。西東京支店に配属されたが、定期的に、各地営業所に移る。来年の春には、九州に行く予定になってる。

 三十二歳、独身。早くに親を失って、兄弟もいない。気楽な身の上さ。

 悩みもある。時々、悪夢にうなされる。

 三年前、体調を崩して、前の会社を辞めた。婚約者を事故で亡くした。ショックで働けなくなった。

 一年間の完全療養。その後、再就職。以前の勤め先より規模は小さいが、全国に支店をもつ今の会社に職を得た。

 前の会社では、名古屋と大阪を行き来。婚約者とは、社内で知り合った。地元、大阪の娘ではちゃめちゃに明るく、活発な女性だった。

「私な、叔母さんになってん♪」

「赤ちゃん、抱っこするねん♪」

「オシメ、替えてあげるねん♪」

 その日、お姉さんの家、生まれたばかりの赤ちゃんを見に行った。帰り道、事故にあった。俺は東京に出張中だった。

 サンデードライバーだったお父さんは、運転が得意な方ではなかった。雨の降り始め、道は危ない。

 夕方から、ポツポツ来はじめた。雨脚が急に強まり、慌てて減速した瞬間、タイヤが浮いた。クルマは、音もなく滑り前のトラックに刺さった。

 その衝撃で、後席に座っていた彼女は、リアガラスを突き破り外に投げ出された。お祝いの席、食べ過ぎて苦しいからと、シートベルトを怠った。

 すべてを失い、俺は、薬漬けになった。

 睡眠導入剤と抗うつ剤、鬱の処方薬にはまった。睡眠薬は、どんどんと量が増えた。夜、布団の中で、目をつむると、様々な感情が交錯、頭の中で、バチバチッと神経が弾けて、まどろみが破壊される。抗うつ剤のある薬は、顔面に強ばりが出た。常に歯を食いしばっているような、痛みなのか、恐怖なのか、何か過ぎ去るのをただじっと待っているような状態だった。

 体質に合う薬が見つかるまで半年もかかった。手元には飲めない大量の薬。大量の処方箋袋を前に、悲観的になった。もうどうでもいい、これを全部飲めば死ねるんだろうか?

 俺の心は、ポッキリと折れていた。

 残ったのは、クルマだけだった。婚約者の彼女とは、よくドライブに出かけた。六甲山、生駒山、青山公園、伊勢志摩スカイライン。

 就職してすぐ、古いオープンカー、青いユーノス・ロードスターをローンで買った。学生の頃からの憧れだった。

「ウチら結婚したらさぁ、オープンカーやったら色々困るかなぁ?でもエエやんな、オシャレな夫婦になるねんもん、なっ、ユウちゃん♪」

 時々不意に、彼女の体温が蘇ってくる。今、助手席にいるかのように。

 会社には、アットホームな雰囲気があった。

 業界の中で、独占的なシェアを占める商品がある。ある意味、寝ていても、金が入ってくるから、全員が、ゆったりと働いている。競争の激しい、前の会社とは正反対だ。

 ランチタイムは、集まってお弁当を食べる。俺は、いつも、コンビニで何かを買って済ませてた。


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