君をさらってベッドルームへ

キス、あと百回したかったよ…

就職浪人のケンは、コンビニのレジで高校時代の憧れだったシオリと再会する。学生時代の傷を抱え、世界から隠れるように生きる彼女。就職を果たし、社会に参加したいともがく彼。ふたりの静かな恋は、仕事、過去、信頼を重ねながら、やがて結婚を意識するように。しかし、シオリの告白が、ケンの心に大きな波紋を広げていく。

#エモチックロマンス
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 リビングに入って、三月になったことに気づいた。

 新しいカレンダーが壁にかかってる。今月はタンポポの絵柄だった。我が家には、彼女が描いた絵が溢れている。カラフルなイラスト、手描きの数字、二十一日には赤く丸がつけられている。

 今年の春分の日は、俺たちにとって、三回目の結婚記念日となる。年に一度、その日だけ、いつものビストロで、外食をすることになっている。

 妻のシオリは、高校の同級生だった。

 三年間同じクラスだったのに、ほとんど話したことがない。シオリは、クラスの男子から、密かな人気を集める可愛い子ちゃんのひとりだった。小柄なのに胸が大きく、細くてサラサラの髪を、白いリボンで結んでる。笑うと波型になる目が、愛らしさを倍増させた。高校で俺と一番仲の良かった池田が、耳元でよく囁いていた。

「シオリにチューしてぇ、それからさぁ、あの胸」

「お前、やっぱバカだな」

「だってスゴクない? あの身体、シオリちゃんの」

 池田は、下品な奴だが難関工業大学に進んだ。自動車エンジニアになるという具体的なビジョンがある。シオリも、将来像がハッキリしている方だったと思う。とにかく、絵を描くことが好きで、自分のノートはもちろん、クラスの黒板には常に、可愛らしい落描きがあったし、文化祭のポスター、連絡事項の配布物なんかにも、彼女が腕をふるったイラストが掲載されていた。

 彼女の机の上にはいつも、大きなペンケースが鎮座していた。そこには、カラーのサインペンがギッシリと詰まってる。そのペンがコピックというプロ用の道具だと知ったのは、俺が、今の事務所に勤めるようになってからだった。

 ノートに向かい、ペンの色を選び、持ち替えながら、彼女は何かを描いている。楽しそうに、嬉しそうに、夢中になって。小さな子どものように純真。それが俺の中のシオリの主たるイメージだった。

 教室の後ろにある黒板に描かれた彼女の絵が好きだった。もちろん、彼女のことも好きだった。でも、ブサイクで、大した取り柄もない俺なんかじゃダメだろう。クラスの男子にちょっかいを出されて、コロコロと笑う彼女を、横目で見ているのが精一杯。シオリは、遠い遠い憧れの人だった。

 俺は、辛うじて単位を取得し、大学を卒業できたのは良かったが就職浪人となる。コンビニでバイトをしながら、就職先を探す日々を送っていた。新卒と既卒、ここには天と地ほどの差がある。知らなかった。

 理想や希望を語っている場合ではなかった。まずは社会人の仲間入りをすることが先決だった。しかし、社会は冷ややかだったし、俺もバカだった。

 職安で紹介された求人に応募した時のこと。そこは、産廃系の会社で、仕事の内容は、記載が曖昧でよく分からず、勧められるまま出向いてみたわけだが、面接の場で、人事担当者に聞かれた。

「念のための確認ですが、ユンボは動かせるんですよね?」

「えっ?ユンボですか?」

「もしかして経験ないの?」

「あり…ません…」

「えーっ⁉」

「あの…ユンボってなんですか?」

 絶句する担当者と見つめ合いながら、新卒の人間に実務経験を求めないでくれと、その時は思った。いや、新卒じゃなく、既卒ですよね、と言われればそれまでだけど。

 ユンボ、一般には広く知られているものなのだろうか。ユンボとは、建築現場で見かけるショベルカーのことだと、後日、調べて理解した。

 俺の両親は金融系の事務職、俺は文学部卒だし、部活もサークルもマンガ読書研究会、そもそも現場作業に縁がない。では俺は、何に関わってきたのか?

 何もしなかった大学生活だった。恥ずかしい。

 漫画サークルだということで、世界的にヒットした漫画アニメの論評文を請われて寄稿し、それがちょっとバズった程度のもの。自慢にもならない。

 

 もはや就職という概念は、ひと昔前とは、まったく変わってしまっているのではないか。仕事に必要なスキルは、学生のうちに獲得せねばならないものになっている。

 社会に出てから学べばいい。そんな考えでは、到底入れてもらえない厳しい世界。それが実態だ。

 自分の間抜けさに気づき、心の中でたっぷりと冷や汗を垂らした。のんびりゆったり生きてしまった己を責めた。マンガサークルで、人並みに彼女なんかを作って、ヘラヘラと時間を無駄にした。知らずとはいえ、失ったものの大きさに背筋が凍る。


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