彼女のメッセージに、行間からただよう、清しさのようなものを感じてる。
人生に躓き、システム開発の現場から逃げ出した元エンジニアのリュウ。孤独な彼が再生の地として選んだのは、小さな腕時計専門店だった。ある日、彼は「Stop2Go」という不思議な時計に出会う。一分ごとに二秒、立ち止まる秒針。その「空白」は、かつて愛を絶命させた彼の後悔を揺り動かす。SNSを通じて繋がる顧客サクラ。彼女は清らかな雰囲気をまとう女性だった。
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#二秒あったら言えたこと
#広ヒロスケ

二秒あったら言えたこと
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朝一番、彼女からのメールを探す。
顔も洗わず、歯も磨かない前から、パソコンの前に立つ。その名を見つけようと、前屈みに画面を覗き込む。彼女との交信は、半年前のものが最後だった。連絡がそう頻繁にあるものでもないことは分かっているが、止められない。
彼女は、俺のお客様で、過去、うちのショップから、腕時計を買ってくれた。店名はRYUU。腕時計専門店である。 交換用ベルトも含めると、五回は発送している。
砂古さくら、目黒に住んでいる。
買い物のたびに、彼女とは、数回のやり取りがある。品物についての問い合わせ、それに対する返信、そして、何度か御礼を言い合う、という流れだ。
彼女のメッセージに、行間からただよう、清しさのようなものを感じてる。彼女に未婚のイメージを持っているのは、俺の勝手な思い込み、願望とも言えるだろう。
〔 この革ベルトは、先日お送りくださった腕時計、フェスティナに取りつけることができますか? サクラ 〕
〔 可能でございます。取付幅十四ミリをお選びください。他、ご不明点があれば、どうかご遠慮なくお尋ねくださいませ。RYUU 〕
〔 ありがとうございます。先ほど注文させていただきました。到着を楽しみにしています。サクラ 〕
〔 早々にご注文をありがとうございました。今しがた、宅配業者への引渡しが終わりました。明日の午前中にはお届けできるかと存じます。楽しみにお待ちいただけたら幸いです。いつもありがとうございます。RYUU 〕
〔 丁寧なご案内をありがとうございます。先ほど受け取りました。想像以上に可愛くて。こちらこそ、いつもありがとうございます。サクラ 〕
そんなやり取りの後、彼女はすぐに、レビューの言葉を残してくれる。星五つのフルマークに、ひと言。
〔 買ってよかった♪ 〕
彼女は、店の大切な顧客。俺は、彼女の大ファンである。こんなに、爽やかな取り引きができるお客様というのは、実のところ、多くはいない。
だから俺は、朝起きたらすぐに、チェックしたくなるんだ。彼女からの連絡、何か問い合わせはないか、何か注文は入っていないか、と。
離婚が決まって、俺は仕事を変えた。
サラリーマンから、ネットショップ店長へ。人生の転機に、副業だったネットショップを本業に据えることにした。
エンジニアを退職したのは、もう外に出て働く力を失ってしまったからだった。無気力に襲われ、居場所も見出せなかった。あの時、もし医者に診せたなら、きっと、中程度以上の鬱、と診断されていただろう。
妻と別れたのは三年前。
もうあの思いはしたくない。結婚の失敗とは、自己否定の際たるもの。ひとたび成就した愛を無かったことにするというのは、どだい不可能なことなのだ。
気丈の妻が、あの薄い緑色の紙、離婚届に、印を押すことに躊躇いの素振りをみせたとき悟った。俺たちのこの行為は、命を危めることと同じだ、と。愛と、命とは、同じものなのだ、と。
システム開発の会社に十二年お世話になった。
美しいオフィス、充分な給与、大企業の看板。エンジニアとして、いい経験をさせてもらった。いち個人だったら、会うことも適わないような、著名なビジネスマンたちとも働くチャンスが与えられた。しかしあの世界は、窮屈に過ぎる。
仕事の性質上、一秒の狂い、一文字のミスが命取りとなる。医療、建築、交通など、他にもミスが許されない世界はある。他業界の友人に聞けば、実情は似たようなものかも知れないが、ITには、宗教的とさえ思えるほど独特の同調圧力がある。事実、精神を病む技術者は、後を絶たない。
別れた妻とは職場結婚だった。一歳年下だが、大学を一年留年した俺とは、同期入社になる。彼女はアドミニストレーターで行政手続きの仕事を担当していた。
二年目に大きなプロジェクトにアサインされ、彼女との接点が出来た。同郷だと分かって意気投合。二年の交際を経て結婚した。子どもを欲しがった彼女は、専業主婦となって、子を授かるその日、その時を、待ち焦がれた。
祝福と歓喜のうちに、みどり児を抱きしめる。そんなシーンを何度も思い浮かべては、どう名付けようか、子ども部屋をどうするかと、楽しく語り合った。
しかし神は、俺たちに、それを許されなかった。
公園で、若いファミリーを見る彼女の横顔に、こわばりが表れるようになった頃、俺の目も見ずに、彼女は言った。
「私、また働く」と。
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