「私、あなたの言うことに全て従います…どうか何も聞かずに、あなたの帰るところへ私を置いてくださいませんか…?」
幸せとは言えない人生を生きてきた、無口で不器用な青年マナブ。ある日、過去を語らない謎めいた美女サヨと出会い、ふたりの同居生活が始まる。多くを求めず、踏み込まず、それでも寄り添う日々。貧しさと不安を抱えながら、彼は、彼女を守れる男になろうともがき始めるが…
#エモチックロマンス
#静かなんです、サヨさんってひとは
#広ヒロスケ

静かなんです、サヨさんってひとは
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静かなんです、サヨさんってひとは。
ものすごく。
彼女は、ふたりの生活のために、黙々と働いてる。パートから帰って、疲れているだろうに、キッチンに立つ姿をみると泣きそうになっちゃう。料理を褒めると、ちょこっと肩をすくめるだけ。
食事が終わったらすぐに食器を片付けて、俺のために珈琲を淹れてくれる。自分は飲まない、苦いのが苦手なんです、と。珈琲がドリップされる間に、シンクを磨く。泡を流し終わったら、布巾で水気を完全に拭き取る。ステンレスが、ピカピカに光ってるし、排水溝のぬめり気もゼロ。根っからのキレイ好き。ここは俺の部屋だったが、今はもうその頃が思い出せないほど変わった。
ふたりディズニーランドに行った時、記念にペアのマグを買った。カップを隣あわせると、ミッキーとミニーがキスをするようにデザインされてる。俺は珈琲、彼女は紅茶。一口飲んで、マグを合わせる。
「ハイ、キッス♪」
彼女を見ると、ピコリと肩をすくめて、ハニカミます。
サヨさんが部屋に来てから俺の毎日はガラリと変わった。悪いことしか起こらなかった暗い人生だったのに。
今はもうあの頃を、自分のことと思えなくなってきている。死にかけたこともあった。俺が二歳の頃、小さなオモチャを誤嚥。腸閉塞になり、一時、危篤に陥ったそうだ。
「お前が子どもをしっかり見ていないからだ」と、父は母をなじった。その一件が遠因となり両親は離婚、俺は父方の祖父母に養育された。
父は仕事で忙しかったから、想い出がほとんどない。会わない時間が長いと子どもはそれが誰かを忘れちゃう。父のことを、時々家に来る親戚のオジさんだと思ってた。
小学校の敷地内、駐車場の脇を歩いてるとき、教頭先生のプリウスが急発進。はねられて、大怪我をした。肋骨、大腿骨、脛骨、腓骨を折った。一番酷かったのは大腿骨で、骨融合までに一年もかかった。その間いっさい運動ができない、身体の成長が遅れた。六年生なのに短距離走で年下男子に勝てない。腕相撲は女子にも負ける。
中学三年、祖父ちゃんが植木を手入れしている最中、心筋梗塞で亡くなった。俺の目の前で。激しい苦痛に顔面を歪める人間の断末魔。恐ろしいものを見てしまった、今でも時々夢にでる。
祖母ちゃんとふたりの貧しい生活になった。嫌だったのは、祖母ちゃんが四六時中、世の中を呪い続けてること。老婆の悪口は、人間の魂を蝕む毒。「ジイさんではなくあんたが死ねばよかった」冗談でも孫に向かって、そんなこと言うか?
毎日が辛い、と父親に連絡をしたとき、新しい女とヨロシクやってたことがわかった。年老いた母親と息子を放置し、自分は遊び暮らしてる。この親にしてこの子あり。きっとこの俺も、ロクでもない人間になる。
祖母ちゃんを看取ったのは高校三年の秋。独りぼっちになった。
大学、専門学校、どっちにしろ進学など望むべくもない。担任も教育にあまり熱心な人間ではなかった。就職先も、人生の行先も定まらないまま、あっけなく卒業。
「クルマの免許だけは持ってないと男は困るぞ、暇なうちに合宿にでも行って取れ」
「でも父さん、俺には金が無いし…」
アパートを借りる金と合宿免許教習の費用は、父親に都合をつけてもらった。初めて、父親から何かをしてもらった経験だった。
「コレまでは悪かった、だがお前も男だろ、一人でも頑張れ、マナブ、なんかあったらその時は連絡しろ」
男親ってこんな感じなのか。でも祖母ちゃんと二人、息が出来ないあの暮らしよりは、いくらもマシだ。
こんな青春時代を送ったからだろうか。俺には、人生に期待することが何もなかった。何かに憧れをもつこともなく、何が欲しいわけでもない。ただ生きている。生きていれば、明日は勝手にやってくる。明日になれば、今日である、その日をただ生きるだけだ。
コンビニバイトに明け暮れる日々となった。
アパートの大家が、バイト先のオーナーだった。彼は、俺が出会った大人の中で、一番の常識人だった。この辺の地主さん、街の名士みたい。やっぱり金がある人は、心に余裕もあるんだなあ。冷たくするでもなく、ベタベタするでもなく、程よい距離感で接してくれた。
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