彼の額に雨つぶが落ちたとき

濡れた?とか、そんなこと聞く?仕事中よ?真っ昼間よ?

幸せの頂点からの婚約破棄で人生ズタボロへ。豪雨を目の前に情緒が爆発する詩乃。職場でも空回り続きの彼女を救ったのは、地味顔ながら、妙に頼れる営業マンの上原だった。感情の暴走、誤解、職場でのボヤ騒ぎ、不器用すぎる彼女に降り注いだのは、不思議な雨だった。

#エモチックコメディ
#彼の額に雨つぶが落ちたとき
#広ヒロスケ

彼の額に雨つぶが落ちたとき
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 職場からエントランスに出て呆然とした。

 ドシャ降りの雨だった。降るって聞いてないし、傘もない。ビショビショに濡れちゃいそう。でもちょうどいい。人生、終わったんだから、私は。ずぶ濡れになってもかまわない。むしろこの雨に打たれて流してしまいたい。想い出も、プライドも、流れてしまえ。計画も、将来も、夢も、消えればいい。

 意を決し大雨の中に飛び込もうとした瞬間だった。

 

「えっ!?」

 誰かが私の腕をつかんだ。

 五年付き合った男と別れた。結婚直前だった。式場が決まって、招待の準備で忙殺中、彼の浮気が発覚。傷ついた。

「ずっと私を騙してたのね!?そんな顔で謝られても無理!もう信じられない!」

「君を騙すつもりなんて微塵もなかったよ!」

「一回だけじゃないでしょ?」

「え?」

「女の子と遊んだの、一回じゃないんでしょ!?」

 唇を尖らせる彼、悪びれる素振りはない。

「でもさ、本気で愛してるのは君だけだよ!」

「あなたに愛を語る資格なんて無い!」

「本当だって!君を愛してる!」

「これからも同じコトするんでしょ?」

「え…?」

「またするに決まってる!」

「だってさぁ…」

「だって何よ?」

「俺モテちゃうんだもん、承知のうえでしょ?詩乃ちゃんも?」

「は?」

「許してよ…ある程度のことは…」

「許す…?」

「うん、ちょっとくらい頼むよ」

 彼の笑顔が薄汚れて見えた。

「んなもん許せるか!このクソが!」

 

 彼とは友だちサリナの紹介で知り合った。KO一族、裕福な家系。親戚には官僚、一流企業の役員、医者、大学教授がゾロゾロいる。初対面は広尾のカフェだった。彼は、完璧にホワイトニングされた歯を見せて笑顔を作った。

「やあ、初めまして!」と。

 光沢のサラサラ髪、ハリのあるツヤ肌、シャープに糊が利いたドレスシャツ、柔らかなモカシンの革はいかにも高品質、手首に重く光るスイスの腕時計、そしてグリードのフレグランス。君にゾッコンだよと、会うたび強く抱きしめられ、富のパフュームに軽いめまいを感じた。リッチな食事、華やかなパーティ、美男美女の巷、あんなにもチヤホヤ、お姫様扱いをして。メロメロになるほど酔わせておいて。裏切った。多分、裏切っているという自覚もない。恐らく五人はいる、セフレのような女友達が。いや、もっとか?それが彼の日常なのだ。私の知らない世界を生きている。

 井の頭公園、彼は新芽を踏んでも何も感じない。私の感情なんて、雑草ほどにも価値がない、彼にとっては。

 私は神に祈る。

 あの男が将来、禿げますように、と。醜く禿げちらかして、ダルンダルンに肥え太りますように、と。

 どんな女からも相手にされなくなって、高血圧と糖尿病の薬にまみれ、顔面はむくみ、肌はガサガサに荒れ、若い女性から容姿を指さされながら嗤われて、息が臭いと忌み嫌われ、遊女から不治の病を移されてついには不能の身となり、生きる喜びを完全に奪われて、泣いて叫んで、歯ぎしりをしながら、トコトン迄も苦しみますように、と。

 男を見る目のない、己が呪わしい。

「ねぇ詩乃?自分で紹介しておいて、こんなこと言うのもナンだけどさぁ…本当にイイの?あの男で?」

 当時はサリナの言葉を真剣に受け止められなかった。リッチで輝かしい未来が私に微笑みかけて、有頂天にまで舞い上がった。あんな男に寄りかかって生きようとしてたなんて。嘆かわしい、愚かしい、救いようがない。

 鏡に映した自分、ブスが過ぎて見るに耐えない。口紅でバツを描いた。圧力で紅の芯が折れる。洗面所をコロげて、床を汚した。血糊みたいね。彼からもらったボンドナンバーナイン、五万円もする口紅だった。ちょっと勿体無いと思った自分が哀しい。

「詩乃、考え直せないのか?」

「お父さんまでそんなこと言う!?」

「だってお前、あちらさんは立派な家柄、現代の貴族だぞ?」

「そうよ、貴族よ、あの人たちは私たち庶民の敵なのよ!?」

「お前が貴族になる一生に一度のチャンスかも知れないんだぞ?」

「なによ、浮気するような男の家に娘を嫁がせたいの?」

「夫婦になるんだから…」

「は?」

「多少のことは我慢が必要なときもあるんじゃないか?」

「多少のこと!?浮気が小さな問題だっていうの?」

「長い人生色々あるさ、父さん母さんだって色んなこと乗り越えてきてるんだよ」

「色んなこと?お父さんも浮気したことあるのね?」

「そうじゃなく!この世はすべてがトレードオフなんだよ、わかってるだろ?」

「トレードオフ?」

「もうお前も、立派な大人なんだから」

「オトナ?」

「お前が踏みとどまってくれればウチの会社も安定するんだ、汲んでくれないか…親の気持ちも…」

「え?」

「母さんはな、老後の心配で眠れない夜もあるんだよ…」

「………」

「詩乃、母さんを安心させてやりたいと思わないのか?」

「嘘でしょ…?」

 破談を憂う。娘の将来を案じての事じゃない。我が身可愛さ。ピアノにバレエ、書道、茶道、華道、etc…小さな頃から私の自由を奪って山ほどの習い事をさせたのは、己の為だったのかよ!?良家に嫁がせるための投資だったのかよ!?

 何が大人だ?トレードオフだ?笑わせるなこの毒親が!右も左も、どいつもこいつもクソばっかりじゃないの!元婚約者も、両親も、クソだ!友よ、サリナよ、何故にあんな奴を紹介してくれたのよ!男の本性を見抜けなかった自分が悪い。私自身も、クソだ!ああ、クソだ!クソだ!世界は全部クソだ!糞土だ!最低だ!

 ビルの軒先、従業員専用通用口、眼前にはドシャ降りの雨。シブキが飛来し髪と頬を濡らしてくる。冷たい。寒気の流入で、今日は急に冷えこんだ。

 こんな雨に打たれたら、絶対風邪ひいちゃうよ…ヤだな…結婚が流れて、未来が消失して、親への尊敬と愛情も失った。独りぼっちになって、職場のみんなからは陰で笑われて、そのうえ風邪で高熱を出して苦しむなんて…悲しいよ…どっかで傘買おうかな。でもな…

 

 結婚準備で貯金の全てを失った。花嫁の美に磨きをかけようと無我夢中だった。何も見えていなかった。バカな私。生活は苦しい。ビニール傘を買うのも、ためらっちゃう。どうしよう…ウジウジ悩む。こんなだから男に浮気されちゃうのよ。

 ええい!もうッ!

 駅まで全速力で走る、走ってやる。ビショ濡れの女、電車の中でジロジロみられちゃうかも。髪から見苦しく雫を垂らし、嫌悪の視線を向けられ、誰も近寄らない。今だって同じか。結婚がダメになった女に安息の場所などない。もう、どうだってイイ。そうよ!いざ!

 意を決し大雨の中へ身を投げようとした時、誰かが私の腕をつかむ。強い力だった。

「キャッ!?」

「ちょっとちょっと!?濡れちゃうよ!?」

「エッ!?」

「ダメだよ、こんな雨に突っ込むなんて無茶すぎる」

 振り返ると、どこか見覚えのある男。誰だっけ…?このオジさん…?知らない人じゃない、どっかで、見たことある…

「佐久間さんでしょ?佐久間詩乃さん?」男が言う

「あ、はい」

「俺、営業です、この店舗担当の上原です、お疲れ様です」

「あ!」

「さっき売り場に顔を出したら、佐久間さんは早番シフトで今帰ったところだって聞いてさ」

「お、お疲れ様です」


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